崩れ落ちた月夜を凛が支えたがその前に月夜が体勢を立て直した。だが、その目に焦点
は無い。凛が近づこうとした夕香を制し月夜をにらんだ。
「来たる」
 うつろな声で月夜が言った。彼に何が視えているのだろうか。その焦点は遠く定まって
いない。
「古の昔に封じられし黄泉の軍勢。この長雨の所以。愚かな天狐の子は今、現世におる。
我ならば止められるかも知れぬ。現世は、今、陰の雨が降っておる。まもなく闇に生きる
ものどもが、跳梁跋扈するだろう。さすれば、この葦原中洲国は滅亡ぞ」
「貴方様はなんと?」
 凛が月夜をねめつけながら言った。口調からして悪いものではないだろう。というより、
神様に近い。凛の言葉に月夜は寛大な笑みをその顔に浮かべて両手を挙げた。
「人の子は我を忘るる。妖の子は我の事を空狐とも呼ぶ。我は狐の神ぞ?」
 ざっと音を立てて血の気が引いた。夕香はその神気に圧倒されて後退った。凛もさすが
にその言葉を聞いて顔を引きつらせ引き締めた。
「この器は人のもの故に今まで我は出られんかった。都軌也にも言っておけい。目覚める
のは必然。文句は汝が母に申せ」
 尊大に笑うとその体が傾いだ。それを支えると凛は溜め息をついた。そして、指示を仰
ぐように神官である少年と長老に目を移した。
「我らが神は言っておられる。現人神の言うに従うがよいと」
「天啓だ。従うしかない。……そうだな、連れは?」
「あたしたちで十分だろ、何か必要になったら連絡する。それでいい?」
「わかった。頼むぞ」
 月夜を支えながら凛は言うと頷いた。月夜は凛を支えとしながら立ち上がるとふらふら
としながらも井戸の方向に向かった。
「ちょ、どうしたのよ」
「水神のお呼びだ」
 井戸から水を汲むと指輪がはめてあるほうの指で水を掬った。
《ほう、コレだけで、気づくとはな》
 水の中から声が聞こえた。その声に夕香は驚いて少し飛び退った。月夜は冷たい水の感
触に目を細めながら声が震えないように勤めていた。
「水神様が、何の用でしょうか。穢れ物の天狐は今……」
《その事ではない。汝が母から預かり物をしているからな、それを渡そうかと》
「母が?」
 その顔に動揺が見られた。張っていた気が少し緩み膝を突いた。体勢が崩れかけた月夜
を支えて夕香は水神の声に耳を澄ました。
 水を渡って深い青色をした勾玉と、緑色の菅玉の腕輪が月夜の手に握り締められた。
 その手を通して月夜の体に霧が晴れるように何かがさあと駆け巡って何かを澄んだもの
にしていった。
「月夜?」
 その何かが霊力だと気づいたのは夕香に呼びかけられてからだった。胸を押さえて水に
神経を澄ましていると何かが見えた。
《己が母の面に違いないな》
 朧掛かった幼き日の記憶が鮮明になっていきよく見知った、面差しが露になる。その面
差しに目を見開いて胸を押さえた手を握り締めた。握り締めた手が震える。唇が戦慄く。
体が震える。
《近々会いに行くと、言っておった。楽しみにするがいい》
 そういい残すと水神の気配は遠ざかっていった。月夜はしばらく動かないで垣間見えた
彼女の慈愛の笑みに色をなくしていた。
「月夜?」
「…………平気だ。なんでもない」
 夕香を覗き込んでふっと笑うとそのままその頭をなでた。そして溜め息を吐いてその腕
輪を左腕にはめて目を閉じた。そして、また目を開いたとき、月夜の瞳には、鋭く強かな
光が宿っていた。
「月夜?」
「なんだ?」
「なにそれ」
「多分、数珠みたいなものだろう」
 左手を握ってその拳を見つめた。また、遠くを見ている。そっとその手に小さな手を重
ねて月夜を覗き込んだ。
「なんだよ」
「ここ見てなかったから、……、平気なの?」
「ああ。もう、な」
 重ねられた小さな手を右手で包み込んでふっと笑った。
「平気だよ」
 深い声で告げると、その手を離して胸を張って歩き出した。貧血気味だったが、いつの
間にか治っている。
「ちょっと、月夜?」
 その後を夕香が追いかける。汲み置かれた水の中から小さな透けた女神が出てきてその
背をさも面白そうに見送っていた。
《ああ、人の仔の思いが向けられているな》
 そう言うとその体が虚空にふっと消えた。
 その直後、一時的だが、両世界に降り続いていた雨がいきなり止んだのであった。
 
 
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